歴史ナビゲーター・金谷俊一郎氏のワンポイントコラム

◆◇◆第9回


第一次上海事変は、上海で激化していた抗日運動の抑圧と、満州国樹立工作から列国の支配をそらすための謀略としておこなわれたといわれています。 一旦は上海総領事と上海市長の間で和解交渉がもたれていたものの、日本海軍が日本陸軍に対抗する意味から市街戦に突入、上海に大きなつめあとを残すこととなりました。
ちなみに、この上海事変でたまたま爆死した3人の一等兵を、当時の陸軍は覚悟の自爆をおこなったという美談に仕立て上げます。
彼らは「肉弾三勇士」と呼ばれ、国民の英雄とされ、ラジオ放送、映画、演劇、レコードなどで肉弾三勇士の美談が一大センセーションを巻き起こし、国民の戦意高揚に大きな影響を与えました。

満州国の首都が新京に開かれたことにともない、関東軍司令部も、旅順から新京に移されました。
本編にもあったように新京は大規模な首都開発がおこなわれていくことになるのですが、
関東軍司令部はそのほぼ中央に置かれました。
実際の関東軍司令部は、1932年に起工して1934年に完成したので、1932年の段階では、あそこまで建物は完成していなかったはずですが、関東軍による満州の実質支配の象徴を表現したかったのだろうということで、そのあたりはお目こぼしを…(笑)
建築様式は現代的ビルに日本の城のような和風の瓦屋根を載せた「帝冠様式」で作られました。
この帝冠様式は、現在でも愛知県庁舎や、京都市美術館などにみられます。
ちなみに、関東軍司令部の建物は現存しており、現在は中国共産党吉林省委員会が使用しています。

最後に、当時の過酷なアジアの状況に対して棗が言った言葉、
「もし日本がもっと強く大きくなれば、そういうことがなくなるのならば、俺は喜んで銃をとります。」
当時、棗と同様の想いを持っていた日本の若者たちが多数戦争にかり出されていったことも事実です。
しかし、その結果得られたものは、もっと過酷で悲惨な戦争であり、彼らの多くはそのための捨て駒として使われてしまったといえるかもしれません。

21世紀になった現在でも、当時と同様に、
「平和のための戦争」「世界を守るための軍事力」
といったことが、世界各地で声高に叫ばれていますが、歴史に立ち帰ってもう一度それらの言葉を見つめ直す必要があるのかもしれません。

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